2025年2月1日土曜日

瞑歩録  2025年1月

 沈黙の夜。でもそれは決して重いものではなく、むしろ無重力に近い感じがした。雲間から覗く星々が雪に埋もれた公園の木々と会話していた。その木々を照明が照らしている。そこはすべての存在が共通の言語で会話できる空間だった。
 ぼくたちはまだ宇宙の本質を知らない。知らないほうが良かったかもしれないことにぼくは気づいてしまった。冷やされ続ける静寂を、ぼくはどこまでも歩いて行けると思う。

1月1日 10,230歩

 

 

 夕空に月と金星をみつけた。
 ぼくは金星に叱られることがある。自分に対して真摯に向き合ってないとき。自分を否定してしまっているとき。逃げようとしているとき。そんな時の金星の眩しさはこころに痛みを覚える。
 今夜の金星は穏やかだった。ぼくはたぶん、このままでいいのだと思う。

1月2日 11,593歩

 

 

 月が浮かんでいる町を歩く。ぼくは月と上手く会話することが出来ない。話しかけても無視されるか、あるいはおうむ返しされるかである。月は感情や意思を持たないように思える。
 でもぼくたちは月に感情を動かされる。勝手に動いているだけかもしれないけれど、月の表情を見続けているとやはり喜怒哀楽があるようにしか思えない。「今日は寒いね」と声をかけたら、月はかすかに微笑んだ。

1月3日 9,902歩

 

 

 街に目覚めの刻が迫っている。観光客だらけだった駅の構内にも少しずつ日常が現れている。厚い雪の中にほんの少し春のきざしが見えてくるように。
 待ち遠しいわけではない。非日常は愛らしい。でも永遠にここにいるわけにもいかないのだろう。日常を愛する試みを再起動しなくてはいけない。目を背けたくなる混沌の中にも春が見つけられるように。

1月4日 10,819歩

 

 

 連休最終日のショッピングモール。日が傾きかける時間になると、休日というのに徐々に空気が重くなる。この瞬間を自らに刻んで置きたくなる。時間の流れは常に均一のはずなのに、現実はきわめて不平等だ。
 通路の向こうに人混みがあった。アンパンマンが来ているらしい。歓声をあげる子どもたちもきっとこの瞬間を刻み込んでいることだろう。止まりゆくものと動き出すもの。いくつかの時計を使い分けながらぼくたちは生きなければならない。

1月5日 10,603歩

 

 

 冬は宇宙との距離が近くなる。雪に覆われた夜は静寂の底がない。耳を澄ませば星々の会話が聞こえそうだ。もちろん実際に聞いたことはないけれど、何かを言いたげな星が瞬いている。二十分の道のりを歩くだけでこんなにも凍えているのに、こんな寒空に一晩中晒されていれば愚痴のひとつも言いたくなるだろう。冬の夜を歩き続けたら、いつか星のことばがわかるようになるのかもしれない。

1月6日 11,412歩 

 

 

 「道路が溶ける」という表現を使うことがある。溶けるのはアスファルトではなく雪なのだけど、「今日は暖かいから道路溶けてる」という言い方をする。冬が少しだけ緩む日のこと。

1月7日 11,224歩


 

  大きなスーツケースとすれ違うことが一時期より少なくなった一方で、スキーやスノーボードを抱えているひとが増えている。季節は少しずつ進んでいる。春節が近づくと、街の様子はまた変化してゆくだろう。順応することも抗うこともないままに、ぼくの季節も進んでゆく。

1月8日 12,935歩

 

 

 映画館を出てしばらくの間、現実のなかで夢をみているような感覚になる。自分と周囲がうまく繋がっていない不安定さ。その感じが好きだ。徐々に輪郭を明確にさせる現実。大事なものを失う感覚。その変化は日曜の夜に感じるものに少し似ている。

1月9日 12,991歩



 

 いつも歩いている道沿いのビル。一階にあった居酒屋がなくなった。毎日その匂いを通り過ぎて空腹を感じていたけれど、空きテナントに匂いはない。出番を失った空腹が恨めしそうにしている。

1月10日 10,047歩


 

 釧路に住んでいた15年前のことを思い出していた。釧路という街は月が似合う印象がある。たいていの土地では、月は街の風景に溶け込めないまま宙に浮いていることが多い。釧路の夜を思い浮かべると必ずそこに月がある。霧が濃いと月も見えないけれど、ぼくの記憶の中の釧路は霧よりも月。札幌駅で電車を待ちながら、釧路に行く特急列車を見送っていた。

1月12日 10,483歩



 この町にわずかに残る鉄道林に沿って歩く。線路は北西の季節風から守られるように敷かれている。大切なものだから守りたい。でも大切に思う対象は変化していくのだろう、林の向こう側を、乗客がほとんどいない電車が過ぎてゆく。
 この町の鉄道林は徐々に伐採されている。樹木もまた、都合よく利用されている。

1月13日 10,273歩


 

 カシオペアを見上げるとそのかたちがMに見えた。どうしてWに見えないのだろうと自分を責めていた。ぼくは、あとから考えると実にくだらない場所に立ち止まってしまうことがある。満月の夜は星も霞むからそんなことはどうでも良くなる。月を眺めているとたいていのことはどうでも良くなる。執着は月に弱い。

1月14日 11,184歩


 

 満月から一日遅れた月は、ぼくの目にはやはり満月にみえた。ぼくは満月でもそうでなくても月が輝いていればそれでいいのに、月は自身が欠けていることに負い目を感じているようだ。ぼくの気持ちは月には伝わらない。やがで月は雲に隠れて、しばらくぶりの雪が降ってきた。

1月15日 11,061歩



 

 雪はいつも白いわけではない。空から落ちてきた時は確かに白いけれど、日々が過ぎるとともに汚れてくる。雪解けの季節には真っ黒な塊になっていることもある。汚れた地上でぼくたちは暮らしている。
 深夜、久しぶりに雪が降った。本当の姿は巧妙に隠されて真っ白な朝が現れた。そもそも、本当ってなんだろう。

1月16日 10,589歩




 線路は時間であることに気づいた。続いているということ。いつか途切れるということ。終わりがないのであればそれは環状であるということ。いつかまたここに戻ってくるということ。線路にもそういう類のものはあるけれど、ぼくの線路はいつか途切れる。終点があることは優しさだと思う。

1月17日 10,466歩




 シガー・ロスは時々聴くけれどその中心メンバーであるヨンシーのソロ作品はほとんど聴いたことがなかった。暮れてゆく電車の中で彼の”First Light”を聴いた。刻々と変化する車窓に合わせるようにアルバムは進行していった。
 生きることは手放して迎えることの繰り返し。幾度もの夕暮れと朝を通り過ぎる。それがこんなにも嬉しいことと気づかせてくれた。ことばに表すことのできない夕景を目の前にしたとき一番に選ぶべき音楽に、ぼくは出会った。

1月18日 10,091歩




 歯の詰め物が取れてそこに空白ができた。失ったものは何なのかを考えていた。これまで食べたものを覚えているわけではもちろんないが、記憶に残る食事もいろいろある。あのときのぼくの一部が欠けたんだな、と思う。
 肉体は日々変化しているのに、それに比べるとこころの変化は小さい。同じ場所をぐるぐる回っている感じがする。それはまるで季節の巡りのように。

1月19日 10,587歩




 不惑。このことばをよく耳にしたのは1988年、南海ホークスの門田博光が二冠王となり「不惑の大砲」などと呼ばれたときだ。四十にして惑わなくなるものなのかと思っていたが、不惑をかなり過ぎてしまった今も惑うことばかりだ。でもそれは惑々(わくわく)しているってことじゃないだろうか。ぼくはきっとこのままでいい。星座は結べなくても気がつけばそこにいる星になるだろう。まるで惑星のように。

1月20日 10,622歩




 子どもの頃、回転木馬は哀しい乗り物だと感じていた。なぜそう感じていたのか長いことわからなかったけれど、あれは人生の象徴なのでは、とふと思った。動いているように見せかけて本当は同じ景色を繰り返し見せているだけ。ゴールも出口もなく、時間が来たら止まるだけ。
 でもそこにいる人たちは本当に楽しそうだ。その華やかな雰囲気に飲まれれば楽しいのかな。答えのない問いがぐるぐる回っている。

1月21日 9,685歩




 一月になってから雪が少ない。比較的暖かい日が続いている。雪かきをしなくて良いのはありがたいことだけど、冬のエネルギーが尽きたようには思えず、蓄積された冬がこの後雪崩のように押し寄せてくるのではないかと構えてしまう。冬なんて早く終わればいいのにと言いながら、いつも冬のことを考えている。

1月22日 10,494歩




 世界が大きく動いている。何かしらのメディアに触れたときその感覚は過敏になる。でも、空を眺めるだけで世界の動きを感じることはできる。夜になったと思えばそのうち朝がやってくる。空の色は刻々と変化して、世界はそれに追従している。これほどダイナミックな動きをぼくは他に知らない。ぼくがそこに飲まれるとき、空はどのような顔をしているだろう。

1月23日 8,007歩




 代名詞。一人称と二人称は基本的にひらがなで書くことにしている。ぼくとかきみとかあなたとか。強いこだわりではないので例外もあるけれど、きみと君では印象も違うと思うし、ぼくにとってはきみという表記がしっくりくる。きみはだいたい架空の存在だからどこか不安定になる。ぼくもやはり不安定なのでお互いを支えきれない。不安定な地平に詩はうまれる。

1月24日 11,042歩




 ぼくは人見知りで、元来社交的な性格ではないと思っている。でも人が嫌いなわけでもなく、遠巻きに人を眺めるのは好きだ。なのでSNSでタイムラインを眺めるのは好きだ。とはいえ、どんなタイムラインであっても良いというわけでもない。
歩きやすい道もあればそうでない道もある。道なんて関係なく好きなところを歩けたら自由なのかもしれないけれど多分問題が起こる。自由とは難しい。
論理が答えを導き出せないなら感性に随う。昔もいまもそんなふうに生きている。

1月25日 12,188歩



 

 ホエールズ時代からベイスターズを応援していた。途中熱心でない時期もあったからファン歴40年とは言ってもそこまでの厚みはない。ただ、この冬はとても楽しい。勝つというのはこういうこと、勝つことに慣れてなかっただけなのかもしれないと思った。試合に勝つたびに
 \横浜優勝/
と書いてしまうのもそういうことなのだろう。でも、慣れることは良いことなのだろうか。感情はいつまでも新鮮であって欲しいと思う。

1月26日 10,664歩




 来週、本気の冬が戻ってくるらしい。その報に触れて身構えてしまう。それでも冬が冬らしくあることは悪いことではない。だれかの帰りを待つのは、どれだけ待たされていてもどこかワクワクしている部分もあって嫌いではない。しかも実際に帰ってくるとなると、こんなに嬉しいことはない。冬も来るけど、その後ろから春も来るのだ。

1月27日 11,440歩



 XにはGrokというAI機能がある。彼に「一番攻撃的なSNSは」と尋ねたらX(旧Twitter)だと言う。また、もっとも安全なSNSを尋ねたらLINEであると答えた。興味深い答えだったけれど、少し寂しい気持ちも芽生えていた。たぶんぼくは忖度した回答を期待していたのだろう。存在しないはずのGrokさんのこころの中に触れてみたくなった。感情レベルでも本当にそう思ってる?合理的であろうとして自分を傷つけてしまうことは、ぼくもたくさん経験したことだから。

1月28日 11,923歩




 風がつめたい。冬の感覚を取り戻したようだ。雪も降ってきた。一月に入ってから穏やかな日が続いていたけれど、忘れかけてたものが戻ってきた。
 ちょうど一年前、吹雪で車が走れなくなった道を、雪を漕いで歩いたことがあった。強い吹雪で正面を見ることもできない中、小一時間歩いた。その記憶を呼び起こすと不思議とあたたかい感情が湧き出す。その時の自分を少し誇らしく感じる。ただ帰宅しただけのことなのに。

1月29日 12,311歩




 近所によく吠えるがいた。攻撃的な性格で、だれに対しても吠えていた。ただ、ぼくが飼っていた犬に対しては吠えることがなかった。
ぼくが飼っていた犬は八方美人でだれに対しても愛想が良かった。ただ、ぼくの上司に対してだけは攻撃的だった。
 冬の風はよく吠える犬に似ていると思った。風も、だれかに対してだけは従順なのかもしれない。あるいはぼくに対してだけ凶暴なのかもしれない。

1月30日 11,298歩




 大事なものを守るために生まれてきた。それなのに誰かの目に触れることを許されない。それでも自分の存在を知って欲しいから明るい場所を目指し懸命に伸びようとする。鼻毛とは悲しい存在だ。ぼくは今まで一度たりとも鼻毛に感謝したことがなかった。ふとそのことに気づいて、少し凹んだ。

1月31日 11,150歩