2024年12月31日火曜日

瞑歩録  2024年12月

 雪が積もる前の12月の公園。落ち葉もきれいに片付けられ、殺風景ということばが似合う場所になった。たまに歩く人とすれ違う程度でほかに動くものもない。三歳くらいの子を連れた女性がいたが、遊具が冬支度済みで使えないことを知りそのまま引き返していた。あの子にとってどんよりした冬の公園はどのように残るのだろう。冷たい風の記憶か、温かい母の手の記憶か。

12月1日 10,360歩




 朝、駅のホームで電車を待つ。目の前に神社がある。聖なる場所がその属性を得るには秘することが必要だと思っていた。でも、木々の緑に囲われている本殿がこの季節になるとよく見える。ではこの季節になると神社のありがたさが薄れるかというと、そういうことはないだろう。
 聖なるものとはなにか。そんなことを考えるのは十二月だからかもしれない。

12月2日 10,635歩




 なぜ人間は冬眠しないのだろう。この季節になると必ず考える。雪に閉ざされて移動も困難になる季節に、そもそもなにを生産できるのだろう。眠っていたほうが余程有意義ではないか。
 でも、冬眠してしまえば、冬の日の出前のやわらかいピンクに染まる東の空や、想い出のようにゆっくり降りてくる雪をみることができなくなる。生きていた記念としてこれらの経験は不可欠と思う。蒸気機関車のように白い息を吐きながら毎朝歩かなければならないとしても。

12月3日 12,574歩




 暮れ切った帰路。着陸に向けて高度を下げている飛行機が頭上を通り過ぎる。疲れ切った羽を休めるという表現は決して比喩ではない。飛行機には適切な整備があるだろうが、ぼくにはせいぜい風呂とビールがあるくらいだ。それでも明日を迎えられるのなら大空を駆け巡ることができるだろう。ぼくにとってそれはただの比喩でしかないけれど、ここではないどこかに行きたいという気持ち。なにか一つでもいい、新しい気色を見るために毎朝目覚めるんだ。

12月4日 11,502歩




 海のある町に住んでいた。海を見ることで浄化できる感情があることを知っていた。今、海のない町に住んでいて、その感情の行き場所がない。ぼくは海に変わる青いものを追い続けていた。空、信号、ネモフィラ、横浜DeNAベイスターズ。そのどれもがしあわせな気分をもたらすけれど、そのどれもが海ではない。たぶんドラえもんでも浄化できない感情を、ぼくはこの町で抱え続ける。それは決して不愉快なことではないけれど、少しだけ身体が重くなる感覚を伴う。冬になると滑りやすくなるのだ。

12月5日 11,610歩




 存在していることは演じていることだと気づいた。例えば社会的な存在としての自分は、いかにもそれっぽいようにぼくが演じている結果として存在する。それはおそらくどのような立場であってもそうだろう。ここでのぼくはふるいはさみを演じている。星々はみな星座を演じている。家路をつつむ夜空を見ながら、そう思った。

12月6日 11,730歩




 気象用語に「長期積雪」というものがある。気象庁の定義では積雪が30日以上継続した状態を言うらしい。ぼくたちはそれを根雪と呼ぶ。それは感覚的なもので、もうこれは許してくれないんだろうなと思った積雪がそれになる。そんな雪を踏みしめながら駅までの道を歩く。車道はともかく、歩道は春まで雪に埋もれたままになるだろう。足の裏に神経を集中させて、路面との対話がはじまる。

12月7日 11,535歩




 歩く人のいない遊歩道。木の枝から雪が落ちる横を歩く。生活は雪に吸収されて町はおとなしい。いつもイヤホンから流している音楽も、今は過剰な味付けのように思える。歩き出せば足音だけが世界の全てでどこを探しても起伏はない。昔の恋をふと思い出したときのようなゆるやかで静かな感情。やわらかい夕空のいろ。ぼくの好きな冬のひとこま。

12月8日 10,235歩




 ジョージ・ウィンストンのDecember。もう何度聴いたかわからないくらいには聴いているけど、不思議と十二月に聴くことは少なかったように思う。雪の多い地に住んでいてぼくはやはり冬が好きではないけれど、冬の好きなところもいろいろあって、そういうものへの憧れに似た感情を想起させる音楽という印象がある。現実の十二月は憧れとは少し違うけれど、雪が降る中を歩いているとふと優しい気持ちになる瞬間がある。ピアノの音が消え入って無音の音を聴く時、生きている感覚がつよくなる。

12月9日 12,270歩




 高校生の頃、ひとつ上の先輩が好きだった。そのことは誰にも話したことがないしこの先もないだろう。忘れてもまったく問題のない感情。その先輩がいまどこでどうしているか知らないし再会を望むわけでもない。ただ、感情の記憶があるだけだ。
これまで経験した感情が練り固められてぼくは存在している。すっかり忘れてしまったとしてもそれはぼくの一部であることに変わりはない。これまで味わった感情をひとつひとつ灯していけば、ぼくは星空にだってなれるだろう。

12月10日 12,467歩




 「もう戻れなくなりました」といわれて終わった恋があった。戻れなくなったのは物理的ではなく精神的な場所。戻るはずだった場所にぼくは取り残されて、動くに動けなくなってしまった。
動けないぼくができることといえば待つことだけ。その出来事があってぼくは、世界は待つことによって拓けてゆくことを知った。待つことも待たないことも、なにを待つかも選ぶ自由がある。だからぼくは今、静かに動く星が天球を切り裂く夜を待っている。さみしい海に溺れたことがある者だけが触れることができる永遠はどのような色をしているのだろう。

12月11日 11,782歩




 こどもの頃買ってもらった置き時計がある。実用的な目的としてはもう使う場面がないけれど、たまにぜんまいを巻いてみるとしばらくの間カチコチ針を動かす。でもそれはこの時計にとって酷いことなのかもしれない。時間が止まったままの安定した世界から不安定の世界へ。いつ止まるかわからない不安の中で針を動かさなければならない。そんな置き時計は、時間なんて幻想なんだよと言っているようにみえる。いや、ぼくがそのことばを欲しがっているだけなのかもしれない。

12月12日 12,540歩




 雪降りつづくふたご座流星群の夜。この雲のうえでたくさんの願い事たちが迷子になっていることだろう。多くのひとが勘違いしているが、流れ星をみたひとの願いが叶うのではない。流れ星をみたひとに、流れ星が抱いていた願いが叶うのだ。流れ星とは常に誰かのしあわせをいつも考えている存在だ。だからその願いが叶って嬉しいと思うひとに自分の姿を見てほしいと考えている。
 ぼくは雲が晴れることを願っていた。流れ星だって自分の姿を見てほしいと願っているはず。そんな願いを隠すように、雪は降り続いている。

12月13日 14,640歩




 夜が少しずつ溶けてゆく。あと数時間もしたら夜のことなど誰も覚えていないだろう。溶けてしまった夜は地面に染み込む。そして一日が終わる頃再び湧き出して、新しい夜を固めてゆく。
アスファルトに包まれた街では溶けた夜の残骸があちこちに落ちたままになり、濾過されない使い古しの夜が街を覆う。そのことに麻痺してしまえば、人もまた使い古しの日々に生きることとなる。
 夜から朝へ向けて歩く。新しいものをみつけた分だけ何かが記憶から落ちてゆく。

12月14日 10,617歩




 歳末の街をひとが大河のように流れてゆく。行き着く海はそれぞれ違うのだろうけれど、誰もが強い意志を持って歩いているように見える。目的もなく歩くぼくはなんとなく流れるままに、誰かの意志の引力を歩く。とある雑貨屋さんにたどり着いてはじめて、その流れはぼくのものでなかったことに気づく。雪が降り積もったあとに落ちた枯葉は、北風に飛ばされ続けるしかない。

12月15日 11,475歩




 外国からの観光客が雪にはしゃぎながら写真を撮っている。それを少し羨ましく思う。雪の多い土地に住んでいて、降りてくる雪は天使にも見えるけれど積もった雪は悪魔にしか思えない。それだってぼくがそう見ているだけのことで見られる側に変化があるわけではない。雪はただ真っ白でいるだけだ。

12月16日 10,988歩




 雪の夜はあかるい。だから迷うことがない、はずだった。雪に埋もれた道をぼくは見失ってしまった。きみが描く窓もすっかり曇って、なにを頼りに歩けばいいのかわからなくなってしまった。
 それでもひとりで歩く冬の夜は深く静かだ。ぼくにはまだことばがある。歩けばそこが道になる。雪の夜はあかるい。道しるべなんかいらない。

12月17日 9,292歩




 冬の朝、ぼくをあたためるもの。生姜湯。違う日はゆず湯。こころを透明にさせてくれるような歌や文章。黒豆。除雪車が残していった雪。その絶望的な重さ。早足で歩く駅までの道。ぼくの頭に雪が降る。雪が溶けるか、ぼくが冷めるか。一瞬の春が生まれる。一日に押し潰されないように、冬の朝。

12月18日 11,752歩




 どんな想い出もいつかはきれいになるように雪はいろいろな感情を隠してくれる。だれも歩いていない新しい道を作り出してくれる。
 日が昇る前の東の空に向かって歩く。一年で一番夜の長い季節。雑念も音もない世界。見えないことは優しさだと思う。それなのにぼくたちは明るさを求めてしまう。優しさに飢えているくせに優しいだけじゃ生きていけない。

12月19日 11,175歩




 冬至がやってくる。終わりでありはじまりでもある日。クリスマスや元日のようになにかに駆り立てられることもなく、静かに過ぎてゆく一日。一年を振り返ったり次の一年に思いを馳せるわけでもなく、遠い夜明けを待ち、逃げてゆく日の背中を見送る。
 金曜夜の街が浮かれているのを横目にみながら、ぼくはぼくだけのしあわせを感じている。ただそこにある、真っ白な一日がやってくる。

12月20日 10,700歩




 記憶は日々遠くなってゆく。それは寂しいことだけど、新しい記憶をつくりだす隙間が生まれるということでもある。そして、その隙間にはなにかを必ず置いておかなければならないわけでもない。こころがからっぽになればそれ以上寂しくなることはない。わかっているのに、思考は常になにかを探しまわっている。
 失うことに臆病になってしまった。うんざりするほど降り積もった雪だって、春には遠くなってしまうんだ。

12月21日 10,724歩




 ケーキ屋さんに行列があった。そこに並んでいる人たちにはそれぞれ待っている人がいて、多くの人たちが楽しい時間を過ごすのだろう。街は流れ作業のようにイベントをこなしながら季節を進めてゆく。誰かがそこに広げたしあわせの設計図をほかの誰かが片付けて、それが繰り返される。
 たくさんの設計図を踏まないように気をつけながら歩く。消えることのないろうそくが一本あれば、ぼくにはそれでいい。

12月22日 10,749歩




 この季節、星が瞬く寒い夜にはじまった恋があった。震えるように告白したのは、決して寒かったからではない。長いこと温めていた想いは、凍えることなく届いてくれた。
結局その恋は長く続かなかったけど、星が降り注ぐ雪道に滑りそうになるとその夜を思い出す。今どこでどうしているかわからないけれど、しあわせであって欲しいと願う。願いは新たな星を生む。雪道はさらに滑りやすくなる。

12月23日 12,300歩




 かつて小学校があった場所を通り過ぎる。すでに校舎はなくなり、隣に建てられた教録員住宅も今は使われていない。かつてはこの時期になると、四階建ての住宅の窓に小さなイルミネーションが飾られていた。寂しい家路にわずかに赤や黄色のあかりが漏れて、凍えたこころがほんの少し溶ける感じがしていた。雪に埋もれた道に足を取られながら、ぼくはきっとホッとしたいのだと思う。その引き金を見失ったまま冬が深まってゆく。

12月24日 15,766歩




 駅に並ぶ飲食店街にある小さな蕎麦屋に入った。食事時ではなかったから客もぼくの他にひとり。カウンターのみの薄暗い店内は長い年月の積み重ねを感じさせられる落ち着きがあって、クリスマスの喧騒に満ちている世界から切り離されたようだった。
 ぼくは、賑やかな場所に身を置くのは得意ではないけれど賑やかな雰囲気そのものが嫌いなわけではない。楽しげな世界をその外側から見るのが好きだ。少し濃い味のつゆが身体に染みて、ぼくはまだ歩いていけると思った。

12月25日 17,493歩




 いつもなにかを探し続けている。ずっと大切に思えるなにかを。本であったり音楽であったり。何十年も続けているけれど達成した気持ちにはならない。大切に思えるなにかはぼくの中にいろいろあるけれど、まだあるのではないか、まだ気づいていないものがあるのではないかと考えてしまう。大切なものが空から次々と降って来て一面の銀世界になってしまっている。でもいつか、本当に大切なのはぼく自身だって気づくのだろう。いつか、春がやって来る。

12月26日 12,224歩




 天気予報が知らせてくれなかった雪が降って来る。衝動的に降り出したのかもしれない雪を浴びながら、暮れてゆく町を歩く。天気を読むのは難しいこと。ひとのこころと同じように。ただ、突然の変化にも何か原因はあるのだろう。だとするとぼくの衝動にも原因はあるはずだ。最近見かけなかったある方のアカウントを見てみようと急に思い立ったのに、どんな原因があるのだろう。

12月28日 10,987歩




 「女心と秋の空」という表現がある。でも、変わりやすいのは冬の空だと思う。快晴だったと思えば急にホアイトアウトになるほどの雪が降ったり。雪雲は比較的高度が低いところを駆け足でやって来る。だから世界が突然ひっくり返ったように感じられるけど、実際は局地的な変化で隣市では晴れてたりすることもある。
検索してみると本来は「男心と秋の空」と言っていたらしい。移ろいやすいのに男女の差はないと思う。それは局地的なことなので、他の人には世界が突然ひっくり返ったような変化に見えるのかもしれない。

12月29日 10,068歩




 年末のこの時期になるとコンビニのレジ前にシャンメリーが並んでいることがある。それを見るとペットショップで成犬や成猫を見た時のような気分になる。タイミングを逸してしまったであろう彼らを買って帰ろうかと考える。パッケージはポケモンとちいかわ。初老のぼくにはそれを手にすることが少しばかり気恥ずかしく感じてしまい、こころの中でまたねと声をかけて店を出た。いつまでも連れて帰ってくれるひとが現れない彼らを想い、ぼくの帰り道は少しだけ険しかった。

12月30日 10,145歩




 この世界はどんなフィルターを選ぶかによって見え方が異なっている。少しぼかした世界がぼくには心地よい。一年の終わりとかはじまりとかは社会の決め事だからその波に乗ってはいるけれど、それに対して加速することも抗うこともない。ぼんやり眺めているくらいがちょうどいい。大晦日を歩きながら改めてそう思った。賑わうスーパーで魚肉ソーセージを買って帰った。それがぼくなりの一年の総括だった。

12月31日 10,109歩