2024年11月18日月曜日

うつろばなし

 終わらないと思っていた夏が終わる。そのくせ夏が秋にかわっても何かがかわった印象はない。変化なんて後から気づくように出来ている。視線の波長とかこころの風向きとか。日々に微妙な変化があったとしてもなかなか気づけるものではない。やがて目覚まし時計に起こされるように、ある日突然ぼくはいろいろなものを失っていることに気づく。
 (2024年9月1日)

 

 夕陽に背を向けると希望が見える。世界は満遍なく照らされ染められている。こどもたちの顔、壁や木々の葉や幹も。ポジティブな感情はオレンジ色をしているのかと思う。
でも、夕陽を正面に見るとさみしさを覚える。別れということばが真っ先に脳裏に現れる。きっとぼくの顔も染められていることだろう。さっきまでぼくが希望の色と感じていたオレンジに。
 別れとは希望であるということだ。オレンジに染まる世界においてはそれが真実なのだろう。ぼくはたくさんの希望を手にして生きてきた。希望はますます膨らんでいくだろう。
 (2024年9月2日)  

 

 海沿いの崖の上に白い街がひろがっている。ぼくはそれを俯瞰するように飛んでいる。それぞれの建物にはそれぞれの生活があって、愛しあったり憎しみあったりしている。ぼくはそれを誰かの代わりに感じ取る。鼓動は速くなったり遅くなったりする。すべての感情を吸い取ってしまえば白い街はどんな色にも染まることはない。すべての喜怒哀楽を開けっぱなしの鳥籠に入れて、朝には忘れてしまう夢をみている。
 (2024年9月3日)


 きれいに終わりたいと思う。余韻こそが美だと思っているから。でもきれいに終わるとはどういうことだろう。存在の根源が海のようなものであるとするならば、終わりとは海に飲み込まれるようなものだ。余韻だってもちろん波にさらわれてしまうだろう。ぼくは本当の意味で終わりを知らないでいる。だから閉じられないものがたりに傷ついて、このまま飲み込まれてしまいたいと思ってしまうんだ。
 (2024年9月4日)

 

 空がどんどん遠くなる季節がやってきた。いつかぼくの世界から空がいなくなってしまうのではないかと不安になる。空のない世界でぼくは、なにを見上げたら良いのだろう。ぼくはまだ空を飛ぶことができない。だから今、空がいなくなっては困るのだ。空を留めたくてぼくは手を伸ばした。指先が、頬に触れることのない風を感じた。白い雲が痛かった。
 (2024年9月5日)

 

 丘の上で暮らしていた頃、秋の星々は手に届くようだった。実際いくつかの星は指先に触れることができていた。そんな生活から遠ざかり、星々もぼくによそよそしくなった。ぼくのほうもかつては星のことをあれこれ考えていた時間が、いまでは歩くための時間になっている。環境がかわるということは残酷なことだ。過ぎ去った恋をふと思い出すように、流れ星が夜空を走り抜けた。
(2024年9月6日)

 

 ぼくのことを待っているひとがいる。いつも不安げに怒ったり泣いたりしている。雨が降る夜は震えていたりする。感情が凪いでしまったぼくのかわりに喜怒哀楽を演じてくれているのに、ぼくはといえばそのひとにまだ出会うことができないでいる。
でも、もうすぐ出会えるだろう。ぼくのこころの中もむかしに比べたらずいぶん殺風景になっていて隠れる場所がなくなってしまったから。そのとき、ぼくは新たな一人称を獲得するだろう。
(2024年9月7日)

 

 立つ鳥跡を濁さずという。それでも飛行機は飛行機雲を残していく。見苦しいと言われても残さなければならない衝動がそこにあった。
 ぼくたちの衝動もやはり何かを残そうとする。ことばだったり絵画だったり音楽だったり、さまざまな方法で。それらは飛行機雲のように時間が経てば消えてしまうだろう。そうとわかっていても衝動を止めることはできない。
 もしかしたら飛行機雲は消えていないのかもしれない。ぼくたちは青空に目を眩まされているだけなのだ。無数の見えない飛行機雲が永遠に生き続けるのだ。
(2024年9月8日)

 

 陽光を思いっきり吸い込んだ海が電車の窓いっぱいに広がって、少し遅れてきた季節はいつまでも優しかった。たしかにその地はぼくのもうひとつのルーツだけど、ぼくはその蓋を頑として開けようとしなかった。いま、ぼくの自我は委ねることを覚えた。初めてなのに懐かしい景色の中で、ぼくにだけ聴こえるマンドリンが鳴り出した。
(2024年9月9日)

 

 怪しげな路地裏を歩くのが好きだった。ぼくの知らない世界とつながっている気がして、ある程度の不安といっぱいの期待を持って歩いていた。異次元への入口をみつけたことはないけれど、時空が歪んでいる感覚を覚えたことは何度かある。繁華街の裏のもう一本奥の路地などに、そういう世界をみつけることがある。
 ぼくはいつから雑踏を嫌うようになったのだろう。ヒトが怖いわけではないけれど、自分の世界を誰かと共有することに抵抗があるのかもしれない。例えて言うとそれは、着替えているところを見られたくない心理に似ている。今更恥ずかしがる歳でもないけれど、誰にも見せたくない部分は確かにある。
(2024年9月10日)

 

 ことばで表現し得るものにはたいした価値はない。そう考えていた。ことばは嘘を生み出せる道具だから、その道具で表現できるものは正しくない可能性がある。そんなあやふやなものに価値はない。
 ところで、正しいとはなにか。嘘とはなにか。考えてみるとそれだって相対的なものだ。たぶん、この世界のすべてはいい加減なものなのだ。まるでことばのように。嘘か本当かによってことばの色が違うのなら、この夜がいつまでも明けなければいいなんて思わないはずたから。
(2024年9月11日)

 

 波の音は規則的なようで必ずしもそうではない。同じタイミングで届いていたしらせが途絶えてしまうと凪いでしまったのかと思う。生きることとは究極的に波のない状態を目指す過程だけど、昨日まで咲いていた花が突然消えてしまうのを受け入れるのは容易いことではない。失ったものの大きさを想いながら砂にその名を記しても、いつかの波が消してしまうだろう。
(2024年9月12日)

 

 情報という名の毒がからだに満ちている。もう溢れてしまっているのに止むことなく注ぎ込まれ続けている。解毒する手段も浄化する方法もない。だからぼくは、こころのうつわの底に穴を開けることにした。ぼくに注ぎ込まれるすべてのものを垂れ流してしまおう。たいせつな何かも流れてしまうかもしれないけれど、もともと生きるということは流れることなのだから、怖いことは何もないはずなんだ。
(2024年9月13日)

 

 ぼくの夜を長く引き延ばした星はいつのまにか紛れてしまった。ぼくは今でも星空を見上げてしまうけれど、そのことに何の意味もないことくらい知っている。目には見えなくても、周期的にその星が巡ってくることはわかる。ほかの星と同じように。23時間56分4秒ごとにぼくの胸は痛み出す。その痛みが鈍くなる季節にぼくたちは永遠にすれ違うだろう。
(2024年9月14日)

 

 歩いていた。目的なんてあるわけもなく、行き場所だってあるわけがなかった。ただ歩きたかったから歩いていた。
 歩いているとひとつの事実に気づく。道は絶対になくならないということ。行き止まりは確かにあるけれどその時は戻ればいい。そうすると道はどこまでも続いている。同じ道を二度歩いてはいけないという執着さえ捨ててしまえば、ぼくたちは永遠の上に立っているんだ。
(2024年9月15日)

 

 忘れられない光景。記憶は徐々に断片となり貼り合わせても元の画には戻らない。あの夜どんな話をしたかは覚えていない。感情だけが確かにここにある。
 月のひかりが歩道に溢れてゆく。いずれ何もかも真っ白になってゆく。忘れられない記憶は忘れるためにここにある。
(2024年9月16日)

 

 着地点のない感情をどうするのが正解かわからないまま空はどんどん高くなってゆく。ふわふわした体温に不快感を覚えないのなら、結論なんて状態のひとつでしかないとわかるはず。死んだら雲になるものと信じていたけれど、ぼくはすでに雲のようだ。それもまた、状態のひとつでしかないんだ。
(2024年9月17日)

 

 ピースがひとつ欠けたジグソーパズルにさみしさを感じる。でもそれが組まれていない状態であればさみしさに気づくことがない。満たされた状態のなかの不足だからこそ感じることができる。さみしさを探してしまうのはよくない癖だと思うけど、それが本能だとすれば、ぼくはその感情に触れたくて生まれてきたのかもしれない。
(2024年9月18日)

 

 朝の陽射しが優しく感じるようになってきた。優しさを感じるのは終わりが近づいているということ。去るひとがいて誰もが優しくなる。そういう季節がすぐそこにいる。
(2024年9月18日)

 

 どこまでも透きとおる蜻蛉の羽でいるはずだった。誰かにみつかれば捕まってしまうというのに、それなのに認知されたい欲が生まれてしまったんだ。それが身を滅ぼすことであったとしても。生きていればいつまでも透明ではいられないと人は言う。でも、蜘蛛の糸はいつだって透明だ。
(2024年9月19日)

 

 夜の公園、ブランコが揺れていた。揺らしていたのは初老の男性。たぶんぼくと同年代だろう。呆然としている彼がどうしてブランコを揺らしているのかわからないけれど、そういえばブランコなんてもう何年も乗っていない。そう考えると彼のことがちょっぴりうらやましく思えた。焼き魚の匂いを乗せた風が公園を流れてゆく。彼の苦悩も風に乗せて飛んでいけばいい。そのブランコ、次はぼくの番なんだ。
(2024年9月20日)

 

 駅から真っ直ぐ伸びた道、月を背負って歩く。すっかり暮れてしまった町に、遠くの喧噪が滲んでいる。小学校の跡地にはきつねの親子が住み着いて、たまにすれ違ったりする。ことばを交わすわけではないけれど、同じ色のさみしさを抱えるもの特有の距離感を保ちながら。振り向くと、月は素知らぬ顔をしていた。きつねも月を見ていた。
(2024年9月21日)

 

 灯台の記憶。だれにも届かない光を放って、そのことが役に立っているのかわからなくて、それでも守るということは貫くことだと信じていた。ぼくはなにを守れたのだろう。感情はすぐに答えを欲しがるけれど、それが得られないならやはり灯し続けるしかないのだろう。
(2024年9月22日)

 

 一年で一番カラフルな季節がやってくる。さまざまな自己主張が色を帯びる。でも自分がどんな色をしているのか知る術はない。虹だって自分自身が七色であることに気づいていない。どうしても知りたいなら第三者の目が必要になるけれど、そこまでして知る必要があるのだろうか。周囲の目をひく色で自分を満たしたところで、すぐにモノトーンの季節がやってくる。それがこの大地の宿命なんだ。
(2024年9月23日)

 

 空がどんどん遠くなってひとり取り残されたような気分になる。それは必ずしもさみしいことではなくて、かといってこれからやってくる楽しいことを期待しているわけでもなくて。ただ変わってゆく。色彩も感情も表現も、どうしていつまでも同じではいられないのだろう。空の表情、心臓を貫くような青もいつか忘れてしまうんだ。
(2024年9月24日)

 

 夜の速度が落ち着いたころ、痩せた月がぼくの宙に迷い込んだ。なにかに悩んでいる感じだったのでぼくは月の悩みごとを聞いてあげた。どんな内容だったかは約束したからここには書かない。
 長いことはなしを聞いていたぼくに、月旅行しませんか。と月が訊いてきた。多くのひとは月旅行とは月に行くことだと考えているが、本当の月旅行は月にまたがって色々なところに行くことをいう。はじめての月旅行はぼくの生まれた町。真っ暗な町にコンビニのあかりがやけに眩しかった。
(2024年9月25日)

 

 秋は引き算の季節。減ってゆくことに対する単純なさみしさが根底にある。夏の数値が高ければ高いほど落差も大きくなる。それは朝食のパンがクロワッサンからバターロールに置き換わった程度の変化に過ぎないけれど、とてつもなく大きな損失感を伴う。失ったものにどれだけの価値があったかなど関係なく。生まれてしまった空白を埋める術もなく、ただただ青い空を眺めている。
(2024年9月26日)

 

 飛行機が夜の街を見下ろすように少しずつ高度を下げている。赤と緑の点滅は脈拍みたいな緻密さで、揺るぎない生命体のように振る舞っている。頑なに保持していた自我同一性をゆっくり手放して、夜の街あかりに吸い込まれていく。その点滅すら存在していなかったかのように。生命の営みはそうやって巨大な混沌に飲み込まれその一部となる。そこには生も死もなく、刹那も永遠もない。
(2024年9月27日)

 

 あの海に会いに行く。そこがぼくのはじまりだった。青を突き詰めたような海がぼくのことばを生み出していた。
あれから半年、ぼくはすっかり枯渇してしまった。ぼくのことばはこわれたメトロノームのようだ。
 だから、海に会いに行く。ぼくにまだことばを紡ぐ力が残っているのならことばの幼生を受け取ろう。そうでないならえんぴつを海に返そう。
(2024年9月28日)

 

 ぼくは夕やけだった。眼前にひろがるこの世界がぼくが認識することによって現れるのだとしたら、これはぼくの表現といっていい。雲間に沈んでゆく太陽の痕跡を空に見ながら、やがて来る闇もまたぼくの表現なのだろう。そうやって薄まってゆく自分自身の心地よさを感じながら聴いていた辺境のジャズは、哀しみの肌触りがした。
(2024年9月29日)

 

 深い夜のはなし。星々の音楽を聴きたかった。ひとつの星はひとつの音しか出すことができない。しかも持続音だから星が奏でる音楽には旋律がない。その代わり圧倒的なハーモニーがある。調和というものはないけれど不協和音もない。
 星空の音楽を聴くためにはあらゆる音を遮断しなければならない。ぼくたちを悩ませる一番大きな音は常に身体のなかから発せられる。生きている間に止めることは不可能だ。ぼくたちが星空の音楽を聴くことができた時、ぼくたちも星々のなかで発声しているに違いない。ぼくたちは、いつか星になるのだ。
(2024年9月30日)