すれ違う女子高校生の荷物があまりに多くて、今日が卒業式だということに気づいた。今日までの日常が非日常にかわる。そのことにまだ気づいていない彼女たちは、今日のあたたかい景色をどのように記憶するのだろう。
たいせつなものを失うときは他のなにかに夢中になっているときだから、失ったことに気づかないことも多い。そうやっていつの日か、こころの中は過去形だらけになっていることを発見する。どうかその瞬間を笑って迎えられますように。
3月1日 10,477歩
一度積もった雪が強い風に飛ばされるのを地吹雪という。雪が風に飛ばされるのを見るとはしゃいで遊ぶこどものようにも見える。だけど雪は元々いた場所に戻ることは決してない。元の場所も新しく落ちた場所も雪にとっては自分の場所ではない。雪は放浪を宿命とする。そういう生き方に憧れてもいたけれど、ぼくは結局雪にはなれなかった。だから春からも生きていくのだろう。いつか吹く風を待ちながら。
3月2日 12,047歩
深い深い海の底で目が覚めた。覚醒とは海中を浮上するようなものだ。徐々にひかりが増して世界が視認できるようになる。完全に浮上してみるとそこは混沌の波がうねっていて、ぼくは飲まれないようにするのに必死だった。
深海のことを思い出していた。何も見えなければ自分を守る必要はないのに、そこはもう戻ることのできない場所だった。
3月3日 11,384歩
一進一退。気温が10度に達した日もあれば一日中氷点下の日もある。季節の変わり目は明確ではないけれど、さまざまなことが徐々に変わりつつある。
生きている以上変化は受け入れなければならない。それは常にせつなさを伴う。捨てきれないものは思い出と呼ばれ新しい自分になる足枷となる。そんなものはない方が楽なのは明らかだけど、足枷にもがいて生きている自分のことは少し愛おしく思う。
3月4日 12,657歩
生が終わると死が訪れる。今生きている人は死を経験していないからそれを語ることはできない。生まれる前の状態を何と言うのかわからないけれど、今生きている人は皆その状態を経験しているはずなのに誰も語ろうとしない。
ヨーグルトを食べながら、そんなことを考えていた。思考やら概念やらを飲み込んで宇宙ができているのだから、それはヨーグルトのような舌触りがするはずだ。そして、少しすっぱい。
3月5日 11,777歩
ぼくを満たすもの。
はじめは知識だと考えた。でも知識の海はあまりに深く限界がないことに気づいた。いくら知識を注ぎ込んでもその容れ物は加速度的に膨張し続ける。
次に、ことばがぼくを満たすと考えた。ことばは元来不自由なものだから、だからこそ思いがけない世界を描くことができる。でもことばはぼくを離れた瞬間ぼくではなくなる。ぼくはひたすら膨張する世界にぼくだったものを投げ続けるしかなかった。
結局、ぼくを満たすものは体温だった。そうして冷めた体温が雪を踏んで歩いていた。
3月6日 13,744歩
どういうわけか、ぼくの恋は三月に終わることが多かった。そのいくつかは今でも鮮明に思い出すことができる。
歩道橋の上を並んで歩いているときに「そろそろはっきりさせたい」と言われた。それが終わりの合図であることはわかったけど、ぼくは何をはっきりさせてなかったのだろう。その答えは四十年経った今も見つからないでいるけれど、あいまいなひとであることは自覚していて、今もこうやってあいまいな文章を書いている。
3月7日 11,891歩
土曜の夜八時、保育園が明るかった。お迎えがまだの子がいるのかと思ったが、保育室は暗かったからきっと先生方が残っているのだろう。保育士さんの仕事は書くものも多いから、遅くまでお疲れさまと呟いた。
園舎はかなりの年月を経た様子だけど、どっしりとして揺るぎがないように感じられた。たくさんのたのしいとさみしいを飲み込んで、建物自体がやさしさで出来ているようにもみえる。
ぼくはこういう人間になりたかった。ぼくには何が足りなかったのだろう。
3月8日 10,938歩
大きな雪片が落ちてくる。湿った雪は冬の終わりの合図となる。町はまだまだ雪景色だけど、気持ちの上では春の入口に差し掛かった感じがしているけれど、季節の入れ替わりのときは去り行く季節のことを考えてしまう。
SNSでお見かけする顔が少しずつ変化している。季節の変化を眺めているときのような気分になる。
3月9日 10,684歩
雪が一気に溶け始めている。気温の上昇に一段ギアが上がった感じがある。朝夕の寒暖差が大きくなるので服装選びが難しくなる。そういえば、あの日もそんな陽気だった。
記憶は時間の経過とともにあちらこちら欠けてくる。たいせつなことを忘れてしまうこともある。何があったかすら忘れていても、その時の空気とか空のいろなどは記憶に残っていることが多い。あの日は、今日より少し淡い空だった。
3月10日 10,383歩
坂がなくなった。一年前までぼくは毎日坂道を降りて、上った。歩く時もあれば車の時もあったけど、それが一日をはじめ、終える合図だった。
夜の上り坂には月のかけらが落ちていた。それを拾い集めてぼくだけの月をつくるつもりでいた。それは結局完成することはなかったけれど、全身に月光を浴びて歩く心地よさは平坦な道とは比べものにならなかった。
もうすぐ満月がやってくる。いつかまた、ぼくだけの月をつくれたらいい。
3月11日 10,175歩
ことばを手放したい。正しく言えば思考を手放したいのだけど、思考はことばに支えられているからことばを手放そうとしている。
ことばから意味を切り離せばことばは思考を支えられなくなる。そのために詩を書いていた。でも、ことばが意味を離れても思考が意味を探し加速してしまう。
ぼくの二年半にわたる試みは回収されないまま大海を漂っていた。こうして執着は、それとわからない姿に化けてぼくに巣食っている。
3月12日 10,540歩
大好きだったはずの本や音楽が響かなくなってしまうことがある。興味や関心の矛先が変化したり、自分の中のものさしがいつの間にか替わっていたりする。好きなものが増えることによってこの世界そのものをもっと好きになれたらいい。
だから通勤時には聴いたことのない音楽をできるだけ選ぶようにしている。サブスクがあるから出来ることだけど、少しずつ視野が広がっている感覚が嬉しい。
3月13日 10,786歩
散らばった記憶をおにぎりのように丸めてみる。それを空に飛ばすと彗星になる。しばらくは見えるところで飛び回っているけれど、やがて遠ざかってしまいその存在すら忘れてしまう。ところがある日不意に戻ってきたりする。ぼくたちはそんな無数の彗星の楕円軌道の中で、なにかを忘れたり思い出したりを繰り返している。
3月14日 11,147歩
スクリーンタイムが表示される。日々の相当な時間スマホの画面を見ていたことに気づかされる。スマホがそれを把握しているということは、ぼくがスマホを見ている以上にスマホがぼくを見ているということでもある。
スマホはぼくにとっての情報源であり娯楽であるけれど、いずれはぼくがスマホにとっての娯楽になるだろう。ぼく自身はスマホを夢中にさせるようなコンテンツにはなり得ないから、せめてこのような小さな話を考えている。
3月15日 10,734歩
コーヒー豆を挽くときすこし悲しい気持ちになる。これから粉々にされ、挙げ句の果てにカスと呼ばれる運命が待っている。安らぎの時間を与えてくれるコーヒー豆だからせめてリスペクトを持って接したい。でもどうすれば伝わるかがわからない。コーヒー豆を見つめたまま、ぼくは朝を奪われている。
3月16日 10,077歩
時刻表には載っていない深夜のバスに乗ってみたくてパン屋前のバス停で待っていた。待っている間は退屈だったから星の結びをひとつひとつ解いていって、そうすると星たちはみな宙から落ちてきた。やっと来たバスにぼくはその星たちを抱えながら乗った。バスの行き先はわからないけれど、そういえば銀河鉄道も最近は赤字つづきでバス転換が検討されているとラジオで言っていた。
3月17日 10,909歩
むかしお付き合いしていた方の夢をみた。一年半ほどの交際のあいだ、そのほとんどがすれ違いだった。今となっては当時の記憶もあいまいだけど、その頃の感情の種が残っていて何かの拍子に芽が出てくる。
一本につながっているはずのぼくの歴史は、振り返れば混線している。昨日みた景色の中に彼女が現れて一時だけリアリティを獲得している。ぼくの脳裏はいつも時間の魔法に翻弄されている。
3月18日 12,547歩
客がまばらな夜の電車。通路を挟んで反対側に若いカップルが座った。少し飲みすぎたぼくは、電車の終点がぼくの目的地だったから注意深くする必要がなかった。だから途中の駅でカップルの男性だけが降りたのにも気に留めることはなかった。
終点が近づいた頃車内に客は数人いた。カップルの女性のとなり、先ほどまで男性が座っていたはずの席に大きなくまのぬいぐるみが座っていた。ぼくは混乱した。カップルと思っていたのは見間違いだったのか。だとしたら途中で降りたのは誰なのか。それとも途中からくまが乗ってきたのか。考えても仕方のないことは春のせいだとしか言いようがない。
3月19日 11,284歩
教会暦では一日のはじまりは日没時とされているらしい。イスラムも同様という。日本では日の出を一日の始まりとする方が馴染みやすそうに思う。
昼と夜どちらを重視するかといえば、洋の東西を問わず昼だと思う。夜を開演を待つ時間とするか、それとも幕後の余韻とするか。ぼくは感覚的には後者だけど、実生活は前者になる。日の出前の時間帯が好きだけど、今はもう目覚めた頃には東の空が溶け始めてしまっている。
3月20日 10,402歩
西の窓から月光が差し込む夜明け前。海が月の引力で満ち引きするように、平らなこころを波立たせようとぼくの記憶を攪拌しはじめる。いろいろなひとを思い出してはあの時口走ったひとことに後悔してしまう。過去はいつまでもぼくを縛ろうとする。窓に月を収めたらぼくは珈琲を淹れる。この瞬間からふるい落とされてしまわないように。
3月21日 11,045歩
雪解けが進むと隠れていたいろいろが見えてくるようになる。それはたいてい昨秋のやり残しだけど、ここからもう一度秋がはじまるわけではない。昔懐かしいお菓子を偶然見つけたときのような、私的で局所的なタイムスリップが起きているようなものだ。記憶は感情を連れてくる。眠気を誘う陽気の中で、ぼくだけの秋が広がっていく。
3月22日 11,601歩
海のないぼくの町を海上保安庁の飛行機が低空で飛んでいた。海を探していたわけではないだろうけど、もしそうなのならぼくと同じだと思った。海のない町に戻って一年。時々、ふと寂しくなる時がある。海は感情を飲み込んでくれる。空に感情を手放したとして、それは雲になり雨になり、やがてぼくのところへ戻ってきてしまう。
3月23日 10,370歩
信じるものは掬われる。屋台の下で、金魚たちはみなそう信じていた。誰かに掬われたらきれいな金魚鉢を泳ぐことができる。とにかくこの劣悪な環境から逃れたかった。
でも金魚たちは知らなかった。誰に掬われるかによってはここより酷い目にあうかもしれないことを。そして、ひとたびここを出たら一生ひとりぼっちであるということを。
3月24日 11,113歩