雨が降ると地下道は混雑する。週末の夜。解放された空気が広がっている。もうすぐこの街にも抑圧された季節がやってくるというのに、そんなことは誰も気にしていない。今を生きるひとたちはきっとしあわせなのだろう。ぼくは昔の記憶を辿りながら、温もりが欲しくなる季節にその断片を拾い集めようとしてしまう。それはそれでしあわせなことだと思っている。
11月1日 12,709歩
落ち葉が道に撒かれている。できるだけ踏まないように歩く。落ち葉を踏むときのあの感覚が、昔車でネコを轢いてしまったときの感覚に似ているから。あのとき飛び出してきたネコにぼくはどうすることも出来なかった。落ち葉であれば避けることができるはずなのに、彼らもときどき飛び出してくる。落ち葉の行方は風だけが知っている。
11月2日 12,247歩
雲が雲を飲み込もうとしている。風の流れは一様ではなく風を受け止める態度もそれぞれだ。風が厳しくなってゆく季節にぼくは無防備なままで、雲より遠いなにかに手をのばしつづけている。安寧とか幸福とかそういう概念とは少し違うけど、目にみえないなにかを。どんなに強い風でも吹き飛ばされないなにかを。
11月3日 10,281歩
解けてゆく感覚。日本には四季があるという。ぼくの感覚にはふたつの季節しかない。冬と冬以外。冬以外の要素が強固になるのがいわゆる夏。強固だったそれが日々崩れてゆく。今ではその残骸が道端のところどころで見られるだけだ。それはもうすぐ土に還る。頼りなく漂う記憶だけが美化される。ほんとうの季節なんてどこにも存在しないことはみんな知っているはずなのに、誰もそれを語ろうとしない。
11月4日 10,360歩
意図せず殺してしまうことがある。郊外を車で走ると沢山のとんぼがフロントガラスに突っ込んでくる。帰宅後のぼくは汚れたフロントガラスを気にするが、その裏には多くの失われた命がある。奪おうと思っても思わなくても奪われる命。どれだけの生命を踏みつけて、ぼくの道に果てはない。そこから逃げることも、戻ることも許されない。冬を目前に、まもなく息絶えるだろう虫を踏んでしまった。
11月5日 10,939歩
永遠の花火を探していた。眩しく開く夜空の花。花火は一瞬だからこそきれいなのだとわかるには、それなりの時間と経験を重ねる必要があるらしい。消えゆくものがきれいなのだと知ってしまえば、この世界そのものが花火なのだと気づく。終わりがあるというのはたぶん優しさであって、その優しさに気づけないからぼくたちは生きているのだろう。
11月6日 10,889歩
駅を出ると街は白かった。その季節がやってきたことが明白になった。冬を温めるもの。温度はこころを震わせることによって生み出される。シャーベット状になった雪を踏みながら、ぼくは世界が少しずつズレていくような感覚をみつけてしまう。それでもなお、ぼくが落としたことばによって誰かのこころが震えるのなら。それはきっとぼくにも共鳴するに違いない。冬を乗り切りたくて、ぼくはことばを探している。
11月7日 11,228歩
金曜夜の歓楽街を歩く。楽しそうな若者たちで溢れている。以前はぼくもそちら側だったなどと思いながら、昔見た映画の些細な場面を思い出すように蛇行していた。喜怒哀楽のすべてが詰まっている街で、どうすれば嬉しい気持ちだけを重ねていくことができるだろう。見上げても星は見えない。軌道から外れたら自由なのか。誰も教えてくれない。
11月8日 10,255歩
いくつかの大きなイベントを控えた街。土曜夕方の駅前は、たしかに普段より人が多かった。この季節の青空はどうして寂しいのだろう。そんなふうに見上げながら歩くと誰かにぶつかりそうになってしまう。その程度には人混みだった。見えている景色もきっとそれぞれ違うのだろうし、時間の流れもそれぞれだ。たまたまそれらが同じ空間に立ち現れたに過ぎない。ぼくはいつだって偶然の地平を歩いている。
11月9日 10,357歩
あとは本格的に雪が降り積もるのを待つだけの公園。先日降った雪が溶け残る中を歩く。木々の葉はほとんど落ちてしまって空が広い。灰色の空が落ちてくる日々がもうすぐやってくるけど、いまは少しだけ覗く青空にかたちばかりの希望を感じている。こころが閉じていくのを感じながら。風が強過ぎてたくさんの旋律を見逃してしまう。そんな中で見つけた四分音符に、ぼくは縋ろうとしてしまう。
11月10日 13,856歩
月曜朝に雨が降る。落ちた雨粒はアスファルトを走るのに、ぼくのこころの中にはいつまでも流れていかないなにかが存在する。それはマシュマロのような形と弾力を持ち、吹きすさぶ風に冷やされた身体を温めてくれる。長いことそれは同じところに留まって、すっかりくたびれてしまった。それを手放さなければ先に進めないというのに。月曜の雨がいつまでも判断を鈍らせる。
11月11日 10,527歩
枯葉が踊る。ほんとうは踊らされているのだけど楽しそうに見えてしまうのは自分勝手なこころなのかもしれない。枯葉といえばキャノンボール・アダレイのSomethin' Else。それはもう条件反射のように自分勝手な着地点。聞き込んでいたころぼくは釧路にいた。釧路の夜は重くて深い。軽薄ではない本気の夜だった。だからぼくもマイルスが奏でるトランペットに沈んでいた。左手に悦び、右手にさみしさを握ったまま。そんな夜の奥深くに、いまからでもたどり着くことはできるだろうか。
11月12日 11,100歩
途切れた海。それぞれの山が夕陽に染まる。手段の問題よりも大きな心理的な障壁。一歩を踏み出すにはあまりに頼りない大地。季節が変わるたびに振り返る夜のささやき。絡め取られるようにことばが出てこなくなる。すべては幻だと定義してしまえば楽なのかもしれないけれど、線路は休むことなく錆びつづけている。
11月13日 11,650歩
弁当を売る声。沈黙は永遠ではなく、沈黙を破る声も永遠ではない。路上にて触れることの出来る感情はどこかぼかしがかかった肌触りをしている。節目をもとめて歩き回ったところで赤得号も永遠ではない。ぼくの背中を押しているのは誰かの好意ではなく、大切なものから目を逸らすよう仕向けられたなにか。便宜上それを季節風と呼ぶ。正午がますます近くなる。
11月14日 10,660歩
寒暖差の季節。ひとのこころがむき出しになる。ありのままを知ることは良いことかもしれないが、見たくはなかったものを目の当たりにすることも避けられない。もう少ししたらすべて真っ白に埋められる。それを待つのか、それとも今に立ち続けるのか。誤解ということばが街に溢れるけれど、自分は誤解していないと思っているのならそれは誤解でしかない。
11月15日 11,232歩
街はもう雪に埋もれる準備を終えたような顔をしている。人々はどうだろう。ぼくはいつまでも取り残されて、大海の小島のように人混みに流されている。どの店も人で溢れているなかで牛丼屋だけが空いていた。非日常になりきれない時間を抱えた人たちが週末に潜伏している。ぼくもそのひとりだけど、見つかってもいいやと投げやりになっている。
11月16日 10,466歩
小雨が落ちる日曜日。繁華街を歩く人たちにとって天気など些細なことなのだろう。それらはエネルギーで成り立っていて損なわれることはない。こんな日のアスファルトは鏡になってこころを映し出す。あらゆる色は漆黒から生まれていることがわかる。もうすぐ白く埋められる季節がくる。そうしてこころは閉ざされる。映されなくなったエネルギーは過去に向かおうとするだろう。
11月17日 11,273歩
冬が戻るべき場所であるのなら、どうして身体はこわばってしまうのだろう。自由でありたいという願望が本能ではなくそう思い込まされているのだとしたら、本当に自分が望んでいるものは何なのか。それを想い描きやすいように雪は降り積もる。そこにはどんなものでも描けるはずなのに、ぼくは毎年雪に圧倒されたまま冬を見逃してしまう。
ぬくもりということばはこそばゆい。調理されたタマネギをわざわざオニオンと言い直すことを強要される謎めいた世界が展開しつつある。
11月18日 11,536歩
アイスバーンを歩く時はペンギンを真似るように歩くといい。ゆっくり歩けば安全かといえば必ずしもそうではなく、次々と軸足を乗せる場所を移して行った方が転倒しにくいように思う。路面には特に滑りやすい場所というのがあって、でもそれは見た目には判別しにくいから。それって人間関係にも似てるなどと思いながら、バランス感覚を試され続けている。
11月19日 12,876歩
アスファルトは乾かない。感情は一定に保たれるわけではない。それでもこの季節は常に濡れている。そうでなければ雪や氷に覆われている。素顔はみえない。足の裏は常にその本音を探している。それは祈りのような信号である。油断していると滑るけれど油断していなくても滑るときはある。現実を受け止めるマインドだけが経験値を積み重ねる。
11月20日 11,916歩
雨上がりの夜、星のかけらを探しながら歩く。水たまりに反射する、不規則に揺れる小さいひかりを見つけたならそれが星のかけらだ。拾ったところで飾ることも身につけることもできないが、拾った星のかけらを屋根の上にばら撒くとそれは星座になる。そうやって日々新しい星座が生まれていることを知るひとはほとんどいない。
11月21日 12,328歩
喧騒の街。いつかあのひとと入った店にひとりで入る。あのときと同じようにぼくはことば遊びに興じる。違うのは、今夜はひとりだということ。変化はいつだって突然の影を伸ばす。店内を彩るアルトサックスが年末の飾りのようにキラキラしている。軸足を少しずつずらしていくことによってぼくは時の流れをつくることができる。そしてあたらしい夜が生まれる。
11月22日 18,967歩
公園は、短調の旋律を長調にする機能を持つ。休日の公園はさまざまなため息が集まってくる。それが解放されて新しいメロディとなる。だれかのその瞬間に関わることはできないけれどその場面に居合わせることはある。そんなとき、ぼくにも新しいメロディが降りてきているようだ。その小さな幸せももうすぐ閉ざされる。人々は雪に埋もれた日々の中で、どこでため息を吐くのだろう。
11月23日 11,356歩
横浜の街は秋だったのにぼくの駅を降りたら吹雪だった。10度くらいの気温差を歩くのは堪える。
三ヶ月半ぶりに一万歩を歩くことができない日となった。これからの季節きっと珍しいことではなくなるのだろう。そう考えると寂しくなる。道は与えられるものではない。でも真っ白な世界では見つけるのも難しい。もどかしさを溜めて夜は長くなる。
11月24日 7,436歩
世間に疎くなりたい。いつの頃からかそう考えていた。報道を避け流行を遠ざける生き方をしていた。関心のある若干の文化的ななにかを追いかける以外はできるだけ余計な情報を遠ざけようと。にもかかわらず生じた隙間時間にSNSや動画サイトが入り込んでくる。
Blueskyはあまり時間を奪おうとしてこないので上手く付き合えているが、YouTubeとかInstagram などの中毒性は恐ろしい。いずれスマホを手放す決断をできればいい。そう思いながら歩いていても、その瞬間ですらスマホは手の中にある。
11月25日 12,037歩
この季節になるとあちらこちらでイルミネーションが灯り出す。動かないホタルのように。冬は静の季節であるけれど街は賑やかに喋り続ける。この無数の光たちはなにを照らしているのだろう。それは灯台にも誘蛾灯にもなり得るのに、自身はそのことに気づくことなくただ静かに光を放っている。惹きつけられるこころも、それが何であるか気づくことなく吸い寄せられている。それは道標かもしれないし墓標かもしれない。
11月26日 11,657歩
降ってくるものが雨なのか雪なのか。条件の組み合わせによる結果に過ぎないことに振り回される。身体にあたる瞬間は雨よりも雪のほうが優しい。積もりさえしなければ雪のほうがいいと思う。でもそんなひとの都合なんて関係ない世界。コントロールできないものを嘆いているけれど、そもそもコントロールできるものってあるのだろうか。自分の感情でさえ操るのは難しいというのに。そう考えると傘がなくても雨の中を歩けるような気がして、大きな勘違いを歩き始めてしまう。
11月27日 10,342歩
オリオンと出会う時間が日々早くなるように、なにかが毎日少しずつ変化している。その微妙な変化に気づくことなく、ある日突然随分と違っていたことに驚いたりする。変化には原因があるはずだけど、原因を知ったからといって変化を止められるというわけでもない。この街も変わってしまったと嘆くしかなくて、それでもその街の色に染まるか否かを選択することはできる。満足できないのであればまた歩き出せばいい。ぼくにとって歩くとは、たぶんそういうことなのだから。
11月28日 12,570歩
寒かったのでコンビニで温かい飲物を買った。それを両手で持ちながら、指先が少しだけ溶けていく感覚は楽しい。でもそれはすぐに消えてしまう感覚。やがてぬるくなってしまったペットボトルの重さが自己主張をし始める。かといってそれを飲むにしても、一瞬だけ体内は緩んでもその反動がすぐにやってくる。風が強い冬の道を歩く時は自分自身が灯火となるしかない。そうわかっているのに、温もりを求めてしまう。
11月29日 12,528歩
ベイスターズの優勝パレードをネット配信で観ていた。晴天のもと少しずつ進んでゆく車列と笑顔。結果的にしあわせだったシーズンが終わりを迎えることに一抹の淋しさも覚える。午後はぼくの街にも青空が覗いていたから、近所の公園を歩くこととした。もうすぐここは雪に沈んでクロスカントリースキーのコースとなる。まだ雪は積もってないけれどその準備は整っているようだった。終わりを迎えるということはなにかが始まるということ。そういう節目に、いつになったら慣れるのだろう。
11月30日 10,283歩